熊野寮祭とは。

寮の個性が年に一度大爆発するところだ!


この寮が混沌としてユニークなのはここが自治寮だから。建物の壁には無数の絵が描かれ、情報伝達を担うボテッカー(紙)がびっしりと貼られている。中庭の民青池ではどこからか脱走してきたアヒルたちが水浴びをし、その真上に謎の建築物がそびえたつ。寮生達は廊下でピアノを弾き汚れながらタテカンを描いて、屋外でヤギはむしゃむしゃ除草している。政治思想を避けない深い会話。頻繁に開催されるコンパで、寮生達は敷いた畳にすし詰めになって一つ鍋の物を食べ親睦を深めていく。地下の音楽室からは爆音が響き、喫煙所にくゆるタバコの煙、夜の屋上の静謐な月、そよぐ風は湿り気を帯びている。夜も煌々と光る談話室には虫も人も引き寄せられ、人間達は課題をしたり談話したり麻雀を打ったりして憩う。夜中に活性化する後ろ倒しの熊野時間に慣れてしまえば2限は起きられず雨なら休講。寮生たちは時間を守る能力が著しく低く、このような感じだから留年者が多いのも当然のことだ。

この寮に入った人間は次第に自分を開放していき、ばら撒かれたユーモアは長年この寮に滞留して密度高いカオスを醸成する。きみもいち早くこの寮に入り、己の価値観・常識が瓦解していく音を聞け。


さて、この寮には熊野寮精神なるものがある。その具体例は以下のようなものだ。自分たちのことは自分たちで決める。意見や不満があれば徹底的に議論する。マイノリティーの立場の寮生も含めて皆が同じように住んでいけるようにする。性別や年齢を問わずまるごとの人間として対等に関わり合う。自分たちがとった行動はあとで総括して反省し今後に生かす。学生の権利を一方的に縮小するような不当な動きには寮として団結し弾劾する。

熊野寮はガサや機動隊などの言葉で有名であるが、この寮への弾圧というものが存在しており廃寮化の危機だってある。寮内外の課題に対し、寮の歴史や社会情勢を踏まえて考える。どうやったらうまく問題を解決することができてこの寮をよくしていけるだろう、存続させていけるだろう。何百人と住んでいてこの寮を想う気持ちは一緒であれど、方法に関しては人によって意見が違うから。時に衝突しつつ意見を突き合わせ、寮にとっての最適解をみなで探し実行していく。

毎年新入寮生はここでの体験に揉みくちゃにされながら上回生と沢山話し、自身も寮の活動に参加していくことによって徐々にこの精神を身につけていく。


なぜ熊野寮祭は行われるのだろう。自治は豊かさを生む。私たちは普段自分たちが多くのことに縛られながら生きているということに無自覚だ。内在化した常識のなか、そういうことになっているから、そういうものだから、みんなそうだからという理由でやらない、できないと思っていることの数々。

もっと思い切ってみないか。人目を気にして、声を上げても無駄だって諦めておとなしく飼いならされていやしないか。自治とは自分たちのことは自分たちで決めるということ。自由であること。私たちはもっと自分らしく生きていい。命を燃やそう。はてを見よう。これはただの文化祭ではない。人を常識から解放し、社会の閉塞感を打ち破っていく自由の力がこの祭りにはきっとある。どろどろに煮詰めた先のドブ色極彩色。この祭りは私たちに究極の熊野寮をみせてくれる。

そしてこの寮祭は新入寮生が実行委員となり形作ったものだ。みんなで寮のことを考え議論し作り上げていくなかで、熊野寮精神はこうしてますます自分たちの血肉になっていくのだった。


もうすぐ今年度熊野寮祭が幕を開ける。10日間240時間ぶっ続けで500個以上の企画を行う。ねぇきみ。もしこの文章を読んですこしでもこの寮に興味をもってくれたなら。足をふみいれてみなよ。取って食ったりはしない。この寮はいつでもきみの訪れを待っている。